アウラとは何か?湿板写真が教えてくれる「写真の原点」
- esfahanchaihane
- 6月27日
- 読了時間: 4分
なぜ、“本当に残る写真”は少ないのか?

私たちはスマホで毎日たくさんの写真を撮ります。旅行に行けば数百枚、子どもの成長も日々記録しているかもしれません。けれど、ふと考えてみると――「心に残る一枚」だけを挙げるのは、意外と難しいものです。
写真は増えたのに、記憶に残る写真は減っている。なぜ、そんなことが起きているのでしょうか?
そのヒントを、“たった一度きりの体験”に価値を見出した、ある思想家の言葉に求めてみたいと思います。

ベンヤミンって誰?「アウラ」って何?
ヴァルター・ベンヤミンは20世紀初頭に活躍したドイツの思想家です。彼の代表的な概念のひとつに「アウラ」があります。
アウラとは、そのものが持つ“いま、ここでしか感じられない雰囲気”のこと。
たとえば、
ルーヴル美術館でモナ・リザを目の前にしたときの、空気の重さ。
大切な人からもらった手紙を読み返すときの、筆跡や紙のにおい。
ホールで聴く生演奏の、息を飲むような静寂。
どれもコピーでは代替できない、“一回性”のある体験です。
これがアウラです。
コピー時代にアウラが失われるとは?
ベンヤミンは「技術が進歩し、芸術が簡単に複製されるようになると、アウラは失われていく」と語りました。

たとえば、美術館で展示されているモナ・リザやフェルメールの名画も、いまやポスターや図録、カタログとして無限に複製され、誰でも「所有」できる時代です。名画のもつ特別な雰囲気は、コピーされるごとにその力を失っていくようにも見えます。
写真や映像も、同じような状況にあります。スマホで撮った画像はボタン一つでクラウドにアップされ、SNSで拡散され、AIによって見栄えよく“最適化”される。けれどそのどれもが、「誰の記憶だったのか」をあいまいにし、写真にアウラが宿る余地をなくしてしまいます。
湿板写真と「不可逆性」:なぜやり直せないことが大切なのか?
湿板写真(コロジオン湿板法)は、19世紀に発明された古い写真技法です。
特徴は、「濡れているうちに撮影・現像を完了させる」ということ。
コロジオンという薬品をガラスに塗り、暗室で銀の反応を加えて撮影の準備をします。そこから時間との勝負。乾く前に撮影し、現像まで一気に進めなければなりません。
もしも一手間でも失敗すれば、その一枚はもう戻ってきません。

撮る側は、構図・露光・ピントすべてを一発勝負で決めます。
写る側もまた、自然と姿勢が正され、集中してその瞬間に向き合うことになります。
そして現像液に沈められたガラス板に、じわじわと像が浮かび上がってくる。
その姿は、どんなポートレートよりも真摯で、沈黙を湛えています。
湿板写真は、“アウラを取り戻す”行為かもしれない
湿板写真には、ほかの写真にはない「質感」があります。
それは単なる見た目の問題ではありません。

その日の気温や湿度
撮影のタイミングや空気の張りつめ方
撮影者と被写体のあいだに交わされた言葉の余韻
――そういったすべてが、化学反応としてガラスの上に痕跡として残ります。
私は、これが“写真というメディアにおける質感”なのではないかと思っています。
ちょうど、写真が発明されたことで絵画が写実性から筆跡や表面のタッチといった「絵画独自の質感」を追い求めるようになったように。
現代のデジタル写真では、画像はどこまでも平滑で粒子がなく、写っている「対象」がすべてです。
それに対して湿板写真は、「何が写っているか」の前に、「どう写ってしまったか」が現れます。
それが、私たちが湿板写真を見たときに感じる「引っかかり」であり、「アウラ」なのかもしれません。
今この瞬間にしか写らないあなたを、ただ一枚に残す
湿板写真は、すぐに何十枚も撮れる写真ではありません。
けれどその一枚には、取り返しのつかない時間の重みが宿ります。
“戻せない”からこそ、そこには覚悟があり、そして美しさがあります。
デジタル画像があふれるいま、湿板写真は、かつて写真が持っていた「ただ一枚」の重みを取り戻す行為なのかもしれません。
湿板写真を撮る。それは写真の未来というより、写真の本質に触れる時間なのかもしれません。

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