湿板写真の歴史(日本)
- esfahanchaihane
- 2024年1月1日
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日本に写真術が最初に到来したのは、1848年で、オランダからのダゲレオタイプが長崎で輸入されたことに始まります。ダゲレオタイプはフランス人のダゲールが完成させた技法で、銅板に銀メッキを施し、沃素の蒸気をあてた感光板 を、カメラで撮影し、水銀蒸気で現像した後 、チオ硫酸 ナトリウム(ハイポ)で 定着するという方法です。ダゲレオタイプは1939年ににフランス政府によって技術が公開され、機材や手引書なども発売されたため、欧米では公表後すぐに写真スタジオが誕生し、実用的な写真技術として普及していきました。日本でのダゲレオタイプについての記録は乏しく、現存するものとしては薩摩藩で撮影された「島津斉彬像」のみと言われています。
一方、湿板写真(コロディオン湿板方式)は1851年にイギリスのフレデリック・スコット・アーチャーが発明した技法で、日本には1854年頃から、長崎 、横浜 、函館という三つの開港場から輸入されました。ダゲレオタイプの割とすぐ後だったこともあり、日本における写真の幕開けは湿板写真からと言われています。
日本における写真の開祖は上野彦馬と下岡蓮杖と言われています。1862年、上野は長崎に、下岡は横浜に写真スタジオを開業し、多くの門下生を育成したこともあり幕末・明治期に大きな影響を残しました。
上野に限った話をすると、上野は長崎海軍伝習所でオランダ人教授ポンペ・ファン・メーデルフォールトから湿板写真について知り、一緒に学んでいた津藩からの伝習生・堀江鍬次郎と湿板写真の実験を始めました。しかし必要な機材も揃わず写真の撮影には多くの困難を伴ないましたが、その後長崎を訪れた写真家ロシエの伝習を受けて写真の実技がみるみる上達していきました。その後オランダ商人から湿板撮影用のカメラを入手し、このカメラを携えて江戸へ赴き藩主らの写真撮影を行うようになります。その後しばらく津の藩校でオランダ語と舎密学(化学)を教え、長崎の自宅に戻り写真スタジオを開業したと言われています。
現代であれば、湿板写真に必要な薬品(硝酸銀やコロジオン等)は化学薬品販売業者から購入できますが、上野の時代にはそれらの薬品を自分等で製造する必要がありました。例えば、アンモニアは牛の骨、青酸カリは牛の血からつくっていたようですが、このころ日本人には、牛肉を食べる風習はなく外国人の食べ物だったため、先述の堀江鍬次郎とともに、夜に牛の解体場に忍び込み、牛の肉や骨を入手することでそれらの薬品を製造したようです。また硝酸銀はメキシコの銀貨を硝酸のなかに溶かしてつくっていたという記述もあります。
上野のスタジオには外国人や、長崎を訪れた多くの幕末の志士たちが訪れ写真に収まっていて、あの有名な坂本龍馬の写真もその一つです。なお明治20年代の写真代金は、キャビネ判で2円、現在の価値で4万円くらいだったようです。
そして1870年代後半には、近代的な感光材料である乾板が導入され始めました。撮影現場で現像する必要があり露出にも数秒間必要な湿板写真に対し、暗室を持ち運ぶ必要のなく感度の高い乾板は写真の世界を大きく変えていくことになり、湿板写真は徐々に世の中から姿を消していったのです。